看護師 岡田 薫

私は災害支援ナースの研修を受けておらず、臨床も1年半ほど離れていたので、ネットや書店で情報を取り出発に備えました。4月8日(土)~4月17日(日)気仙沼派遣で、階上中学校避難所へ向かいました。


▲4月9日(土) 国道は瓦礫が撤去されていますが、そのままの状態で残っていました。


まだ捜索が入っていない場所もあり、まるで映像を見ているような感覚で、現実を受けとめるまでに数日かかる程辛い光景でした。避難所は電気・水道・ガスは復旧しており、食事は自衛隊から一日2回の配給があり、お昼はパンなどの物資配給でした。お風呂は徒歩10分のゴルフ場ですが、入っていない方もおられました。長期の避難所生活のストレスや、食生活の偏りで、持病の悪化・隠れ高血圧等ある方。じっと耐えて生活されている方、関わることで見えてきました。救う医療から支える医療への移行期ですが、まずは現地の状況を知り、気になる事象が見えても答えを急がず、現場の方々が最大限努力していることを忘れずにどうしたら対象のためになるのか、労い、謙虚に、自分のストレスコントロールも忘れず、やって行こうと決めました。物資整理や引っ越し掃除手伝い、避難所の健康チェック、他の避難所への巡回、家庭訪問等、現地のニーズに合わせて出来ることは何でも行いました。


▲4月12日(水) 体育館倉庫。ここを拠点に救援活動を行っていました。


地区の家庭訪問はまだ巡回できていない場所があり、避難所の保健職員は運営に追われ、当初ボランティア一人で家庭訪問を行っていました。まだ電気や電話の通っていない地域もあり、早急に把握が必要だと感じました。その事を宿に帰ってリーダーに伝えると、「地域で保健師のローラー作戦が始まっているが、「階上は出来ている」との情報で外れているよ」とのことでした。階上地区は独自で対策本部を設置されているのですが、市や県との連携がどのように行われているか十分な情報がないので、その時は事実をリーダーに伝え、外の情報を階上の看護師に伝える事しかできませんでした。
また、出発当日に関西広域連合の一員として行くことを知り、2日目の夜、宿で兵庫県庁の保健師さんから「避難所常駐の市の保健職員を本庁に返す為に看護師が気仙沼に派遣されている」という事実を聞き、驚きました。県の具体的な要請を現地で知り、責任の重さに不安でしたが、現場のニーズと本庁(行政)のニーズを念頭に現地の状況把握を行い、看護ボランティアが介入することで状況の改善が見込めるのか、できる範囲で繋いでいこうと考えました。メンバーと密に相談をし、一人で抱えないようにしました。 4日目から2人派遣となった時は本当に心強かったです。


▲4月15日階上中学校の有志の方と。多くの事を教えてくださいました。


階上中は、地元の有志が10人前後、自らも被災した中、避難所や地区の運営を行っていました。市の看護師2名、保健師1名が「地域の方々を見捨てるような形でここを去ることはできない、先を考えると今は本当に大切な時期」と言われ、地域に密着して常駐しています。家族の元へ2回しか戻ってない方もいました。運営する方の疲労は図りしれません。本庁へのシフトを組む事だけでなく、まずは少しでもご自身の家族と時間が持てるよう労い、夜勤介入を申し出てみました。すると地元の看護師さんは「いつまで人的支援があるのかわからず、その日ある仕事を頼む形でやっていた中、うれしい。」と遅出を依頼されました。こちらから一歩介入した事を喜んでくださいました。また、滞在中に兵庫県が支援を2か所に絞り、現段階で階上へ継続的介入する事になったので、申し送りノートを作り、現地の情報を書き残して次のボランティアに繋げていく様にしました。十分な情報は残せませんでしたが、階上の看護師・保健師さんにも見せ、情報の共通認識を図りました。
 神戸へ帰ってきてからは優しい声をかけられると涙が出たり、テレビや音楽の趣向が変わったり、心の揺れにこれもまた正常な反応なのだと、研修やメンバー、家族に支えてもらいました。この貴重な経験をこれからの人生に役立てて行きたいです。